第十話・脱走

 夜明け前に娼館を出る。
 見張りは数人程度。これでは死角なんていくらでもある。拘束されているわけでもない。
 ほとんど衝動的に動いたようなものだったが、想像していたよりも遙かに容易だった。

 考えてみれば当然だった。
 常時 完全な監視状態を維持するのは不可能だ。見張りが いくら居ても足りない。
 娼館としては、『逃げられてもどのみち港で捕捉できるのだから問題はない』という考えなのだろう。
 実際、リンダは連れ戻された。
 私もおそらくは……。

 娼館を離れる際、後ろから誰かに声を掛けられた。たぶん見張りだ。
 声色からして脱走を疑っていたわけではないだろう。私が誰だかも分かっていなかったはず。
 聞こえない振りをして歩き去るのが最善の対処だったと思うが、動転した私は走って逃げてしまった。
 自分から逃亡奴隷だと言っているようなものだ。

 その場からは逃げ果せたものの、これでは港に辿り着くことすらできそうにない。
 すぐに追っ手が来るだろう。
 とにかく私は街から離れることにした。

――――

 草木の匂いは故郷を思い出させる。
 でも樹木の形はどこか違うような気がした。正確に覚えているわけではないが、それでも違和感がある。
 人だけでなく、自然さえも、ここと祖国では異なっているのだ。今更のことだが疎外感を覚えた。

 森に入り、奥へ向かって歩く。
 島の中を逃げ回るしか術はない。
 絶望的な状況だけど、足を止めるわけにはいかない。
 娼館に連れ戻されたら、リンダと同じようにカカトの腱を切られ、さらには堕胎の毒を飲まされてしまう。

 焦燥のあまり走り出したくなるが、私はその気持ちを抑えて歩き続けた。
 長く囚われていた身体で走っても長くは保たない。
 少しでも娼館から距離を取るためには焦らない方が良い。
 単なる時間稼ぎにしかならないだろうが……。

 深夜であっても森は うるさかった。
 虫の鳴き声が断続的に聞こえてくるし、たまに草や枝の揺れる音が鳴る。
 私はそのたびに追っ手が来たのかと思い、慌てて音の方を見て、誰も居ないことを確認すると脱力した。

 どれだけ歩き回ったか分からない。
 足が痛くてたまらなくなっても、ひたすら進み続けた。
 一体どこへ向かっていると言うのか。自分でも分からない。

 歩いている間にだんだん頭が冷えてきたようで、強烈な後悔に襲われるようになった。
 そもそも娼館から出るべきではなかった。
 毒を飲まされても、死んだり後遺症が残ったりする可能性は、それほど高くない。なのに、何をそんなにも恐れていたのか。
 まあ、今はそう思っていても、また毒を目の当たりにしたら、やはり逃げ出したくなるのだろうけれど。

 それでも、脱走は短慮だったと思う。
 たとえ見張りに遭遇しなかったとしても、どうせ島から出ることはできなかったのだから。

 故郷に帰りたい。
 その想いが楽観的な判断を招いてしまったのだろうか。

 故郷か……。
 結婚させられることに不満を抱いていたのが懐かしい。
 贅沢な暮らしを維持できることがいかに恵まれているか、分かっているつもりになっていただけで、実際はまるで分かっていなかった。

 今や私に残されているのは、過去の記憶だけだ。
 豪華な食事。大勢の使用人。柔らかい毛布。
 それと、幼馴染みの男の子と遊んだ思い出。

 他はともかく、幼馴染みと見上げた青空だけは、もう一度 見ることができるかもしれない。
 まだ夜空しか見えないから、日が出てくるまでは逃げ続けなければならないけれど。

 娼館に連れ戻されたら どうなるか分からない。空を見る機会は二度と訪れないかもしれない。
 私は、重い足を引きずるようにして前へ進んだ。
 青空を見る。今となっては、それが最後の望みだった。

 爪先に痛みが走り、私は前のめりに倒れ込んだ。
 土の味が口の中に広がる。
 何度も唾を吐きながら足元を見てみると、地面から木の根が突き出していた。
 足を引っ掛けてしまったのだ。
 こんなものに邪魔をされたのかと思うと 何故だか可笑しくなってきた。
 私は笑った。しかし自分が涙を流していることに気付き、すぐに笑うのをやめた。

 もう立ち上がる気にはなれなかった。
 身体は疲れ切っている。
 少し休もう。少しだけ。
 そう思い、目を閉じる。
 眠るつもりはなかったのに、いつの間にか意識が途切れた。

――――

 目が覚めた途端、私は辺りを見回した。
 誰かに追われている夢を見ていた気がするけど、はっきりとは覚えていない。
 追っ手が居ないことを確認してから立ち上がる。

 どれくらい眠っていたのか分からないが、とにかく移動を再開しないと。
 そう思い踏み出した足は、一歩で止まった。

 枝の間から日差しが見える……。
 もう夜は明けているのだ。
 けれど、ここでは木が邪魔で空がよく見えない。
 まずは森を出よう。

 どの方角へ向かえば良いのかも分からないまま私は走り出した。
 たまに木々から漏れた日光が顔に当たる。
 お日様を長く見ていなかったせいか、妙に目が痛かった。
 日光の大部分を森に遮られていて結果的には助かったのかもしれない。
 徐々に慣れてくると、日差しの暖かさが懐かしく思えた。

 やがて、木が途切れ途切れになってきた。
 闇雲に走っていただけだったが、運良く草原に出られそうだ。

 私は走るのをやめ、歩きながら呼吸を整えた。
 まだ息は苦しいのに早歩きになってしまう。
 すぐそこに青空が広がっているのだ。逸る気持ちを抑え切れない。
 森から出ると、日光が全身を照らした。

 上空には、昔 見た光景が広がっていた。
 言葉も文化も違う異国であっても、青空は何も変わらなかった。

 この空の下に私の国があるのだ。
 緩やかに流れる雲は、ひょっとしたら故郷の空を通ってきたかもしれない。
 そう考えると、遙か遠方のはずの祖国が、ずいぶんと近くにあるように思えた。

 風で揺れた髪が頬を撫でる。
 心地良い感覚だった。
 私は草原に寝転び、仰向けになった。

 草の匂いが微風で運ばれてくると、連鎖して当時の五感が鮮明に甦ってくる。
 男の子はいつも私の右隣で仰向けになっていたから、こうしている今も、右から息遣いが聞こえてくるような気がした。
 実際には誰も居ないことは分かっている。
 だから目で確認したりはしない。
 私は仰向けのまま両手を広げ、青空を眺め続けた。

――――

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